HakoniWa戯言Vol.6コンセプト「HakoniWa」はコペルニクス的転回より生まれ出づる
「愉しみの3本柱」
・ガストロノミ
・リベラルアーツ
・コミュニティ/コミュニケーション
という僕自身の「愉しみ」を「愉しむ」ことのキーワードを
導き出したが、それらをあぶり出すための、HakoniWaマンダラを
作成するために基本となる、コンセプト(概念)を掲げた。
それが、「HakoniWa(ハコニワ)」である。
もちろん、あの箱庭をもじったものである。
一言で言うと、「箱の中にミニチュアの庭園などを造ったもの」
参考↓
コンセプト「HakoniWa」
この概念に行き着いたとき、僕はコペルニクス的転回を体験した。
それは、人から見れば本当にささいなことだと思うが、僕自身に
ついては本当に天と地がひっくり返ったかのようだった。(盛ってます)
結論的に簡単に言うと、まさに「幸せの青い鳥」的なオチである。
「HakoniWa」に出会うまでは、このブログ:HakoniWa戯言での命題である
「愉しみ」について考察をしていたが、どうも考えが堂々巡りで実感が薄く
まるで濃い霧の中をさまよっているような感覚だった。
今思えば、それは答えをどこか遠いところにあるものだと思っていた
ココではない、どこかに、自分の外にあると思い込んでいた、ように思う。
(まるで、チルチルとミチルが青い鳥を探してあてのない旅をしたように。)
ある時そのときは訪れた。
堂々巡りも煮詰まるところまで煮詰まり、ふと、何かが違うと気がついた。(気がした)
そもそもの考え方が違うのでは?ひっくり返してみよう、と。
それでの考え
・探しているもの(愉しみ)はまだ出会っていない「ナニカ」である
それは何かな?(漠然としすぎて、雲をつかむよう)
・自分にはなにができるんだ?無限の可能性があるから、これから
新たになにか探してやってみよう!
(つまりは、今はなにもできないということか?!)
これをまるっきり変えてみた、正反対にしてみた。
・探しているものは、もうすでに手の内にある。
今ここにある、もしくは自分の中(経験)の中にある
・自分にはなにができるんだ?新たナニカをどこかに探すのではなく
できることを自分自身(の経験)に聞いてみよう。
するとどうだろう、霧がスッキリと晴れ渡っていく感覚がした。
答えはココにあったか!と。
(実際は、答えに通ずる道とでも表現すべきか)
そう考えると、自分自身が何かこう「箱庭」箱の中にミニチュアの
庭園などを造ったもの、というのとリンクして感じた。
結局は、何を望もうが望むまいが、そこに世界はあるのであって、
自分の生きている世界がある(まるで箱庭の箱)。
そこで、自分の持てるものでいかに、どんな庭園を作るか、
どんなアプローチをするかbが問題である。
(枯山水のように、壮大な見立てをして愉しむこともできる。庭だけに)
外に(ここではないドコカ、今の自分ではないダレカに)誰答えがあるはずだ
と思っていた時は全く考えもしなかった。
結局は、何かを望もうが望むまいが、あるのはこの世界で、この世間で
ここにいるのも、ここに来たのも、ここから進むのも自分なんだと。
今、ここ、自分自身、そこからしか始まらない。
そうして、
コンセプト「HakoniWa」は生まれた。
それは、まさに「吾唯足るを知る」的精神である。
この語をしった時から、自身の可能性に蓋をするようなネガティブな言葉だなと
いう印象を持っていたが、それはその語の本質を捉えていなかっただけだと
今はそう、感じる。
「吾唯足るを知る」
それは、独自の解釈だが、今この時点でできることは限られるかもしれないが
それをしっかりやり切ることでしか、その先の未知は拓かれない、ということ。
もう十分で、これ以上の発展はなし、ということではなくて
ここから進むためには、自分を知り、やれることをやる、しっかりやる
それしか道はないんだよ、と。
近道があったり、ある日起きたら、スーパーマンになっていたりは
しないよとおいうこと。
今、ココにあるもの、それは有形・無形、様々あり、それをいかに「愉しみ」
として捉えるか、石を山と捉え、波模様をつけた砂利と海を例えるように。
そして、それをいかにして、「愉しむ」か。
いろいろ配置に工夫を凝らしたり、仲間とともに愛でたり、時間の経過を
楽しんだり、どういうアプローチをするか。
それが、「愉しみ」を「愉しむ」。
そして、「愉しみ」を考察して、「愉しむ」実践する。
ということに発展させていきたい。
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