HakoniWa戯言Vol.16社会へのアプローチ〜凡人が後世への最大遺物を考察してみる〜
前回、「後世への最大遺物は社会である。その後世への最大遺物としての社会、その形成へ貢献することが私なりの生きがいである。」
との思いに辿り着いた。
その思索をさらに深めていきたい…
では、社会とは何か?
「コンセプトHakoniWa」的に、社会とは「あるもの」、私や個々人が特に意識しなくても、存在し人がその営みを続けているかぎりそこに「あるもの」である。
まさに、コンセプトHakoniWa的に楽しもう!とする絶好の対象である。
(「コンセプトHakoniWa」とは、一言でいうと、あるものを/あることを、楽しもう!とする考えのこと)
そもそも、社会とは私自身が特になにもしなくても、後世への最大遺物になるものであると思う。
ヒトの営みとともにそこにあり続けるものであり、あり続けているものである。
問題は、社会は社会でも後世への最大遺物としての社会をいかに捉えて、いかにアプローチするか?そのことをいかにそれを楽しむか?ということである。
社会に貢献するといったことを言及すると、政治や政治家といったことが真っ先に挙げられると思う。
しかし、後世への最大遺物としての社会の形成に貢献することを考えると、政治というのはアプローチの一つの方法であって、さらにそのその方法の一つの手段が政治家というものであると考えることができると思う。
「社会」は常に存在している、そこに「ある」ものである、後世への最大遺物たる「社会」
というのは、我々や常々、そこに生きる一人ひとりの営みの集合と蓄積によって創られて
今日まで連綿と紡いできたものであると思う。
つまり、今、この時、その時を生きる人々の営みが社会を描き出し、それが次代へと受け継がれてそれが後世への最大遺物たる社会と成るのではないかと考える。
つまり、今を生きる我々の営み、生活そのもの、内村鑑三が後世への最大遺物と説いた生涯、その集合と蓄積が「社会」である。
それをいかにして、「後世への最大遺物としての」社会にするには、社会を後世への最大遺物にしよう!とする志向が必要になってくると考える。
その志向を伴う営みを「文化」と呼ぶのではなかろうか。
とすると、「文化」を志向することは社会にアプローチすることになると考える。
その「文化」の一つの顕れとしての、先の例にも出した政治や政治家が
存在するのではないかと思う。
議会制民主主義も、その社会が持つ文化の一つとして言えると考えるからである。
ここまでをまとめると…
私はこう思う。
後世への最大遺物としての社会とは社会に対するその「後世への最大遺物とする」という志向が継承されていってこそ成り立つものである。
その継承に貢献するためには、その志向の基層を担うであろう文化を育むことが重要であるのではないか。
つまり、文化に貢献する、アプローチすることが、社会に貢献することにつながると考える。
(逆に、社会とは文化の発露したものということも成り立つのではないかと思う。)
では、その文化とはなにか?
その文化にどのようにアプローチするか?
さらに、思索を深めていきたい。
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